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決断力のなさで残留組に

三浦 政人

「どこか小利口で思い切りの悪いヤツ」
おそらくそんなマイナスの評価から始まったのが、IMSグループでの私のキャリアでした。もちろん、好き好んで自分から、そんな印象を持たれようとしているわけもありません。あとになって考えてみると、確かにまずいやり方だったなと気づくことが多いのは反省点です。
一時はそのことで、私自身だいぶ落ち込んでいた時期もありました。ただ、そんな私でも結果的にはグループ会社を自ら経営し、目標達成に向けたIMSグループの活動の一翼を担うまでになっています。最近、「生まれついての気質や性格を変えるのは誰にでもできるようなことじゃない。
でも、持って生まれた条件のなかでも人間力を高めることはできるし、諦めなければ絶対失敗じゃない。
短気を起こしてうっちゃらなければ、逆に成功の方から近づいてくるかもしれない」というようなことに気づきました。だいたい、私が警備業に関わるようになったきっかけからして情けないものでした。
毎日の糧にもこと欠くようなことがあり、支払いの早い仕事を探して現場の隊員になったのですから……そこから内勤に誘われ、順送りのような感じで少しずつ経験を積んでいきました。
これは2つ前の会社でのことですが、株式会社CTUの室井社長はそこでの所長でした。
当時、すでに株式会社IMSの立ち上げメンバーとして、準備に取りかかろうとしていた室井社長の引きで篠田総代(当時代表)をはじめとするみなさんとお会いし、話を聞くなかで自分のなかにも「独立したい、思い切りこの仕事で自分を試したい」という思いが沸々とわいてくるのを感じたのです。
ところがダメですね。みなさんと別れて一人になると、その熱い気持ちはだらしなく萎んでしまう。
だから、いよいよ新会社立ち上げとなったときにも参加するタイミングを逃し、気がつくと自分だけはなにも変わらず前の会社で働き続けていました。
「これじゃいかん! なにも変わらないじゃないか」
そう決意してIMSグループの門を叩いたのも、中途半端でしたね。なんといっても、まず、篠田総代のところへいかなきゃいけなかったのです。それまで、いろいろ相談にも乗ってもらっていたのだから、なんの問題もないはずですから―ところが、私が出向いたのは株式会社CTU。
結局、一番気の置けない室井社長に、雇ってくださいと頼み込んだのです。
当時、のちにできる子会社の先頭を走っていたのが株式会社CTUでした。世情に逆行して頑固に高単価で受注し、隊員さんに対してもグループ内一番の好待遇を目指して運営を行っていたのです。
当然、脇からみて、「三浦は最初から勝負を避けている、勝ち馬に乗っている」と感じられたとしてもしょうがありません。
そんな私の思い切りの悪い性格と行動の遅さは、IMSグループに参加するようになってからも、さんざん自分自身を苦しめる原因となっていきます。


花火大会をやり抜いた室井社長の力

そんな決断力のなさの対極にあったのが、私が入社した株式会社CTUの室井社長だと思います。
その思い切りのよさや、手腕、行動力、どれをとっても素晴らしいと心底感心してしまいます。たとえば、株式会社CTUとして初めての大きな仕事となった草加の花火大会の警備。じつはこの案件は開催1カ月前というタイミングでの発注で、それも120名の隊員を手配してほしいという大規模なものだったのです。当時CTUでは30名、IMSグループ全体で警備員数が120名。もちろん既存の現場が動きますから、とてもではありませんが、大規模な花火大会の警備などこなせるはずはないでしょう。
ましてや、準備期間は1カ月ほどしかないのです。私からすれば、話を聞いてすぐに断ってもしょうがないような案件としか思えません。
しかし、室井社長はその仕事を受諾。もちろん大変な苦労をされましたが、他のいくつかの警備会社と連絡、協力することで見事に成し遂げたのです。
当時、私はまだ株式会社CTUに移ってきたばかり。どこかお客さん気分が抜けきれないなか、その思い切りのよい決断と手腕、やりきる熱意に圧倒されたことを覚えています。
そんな折に、株式会社CTUには大きな変化が訪れます。室井社長の盟友として文字通り二人で株式会社CTUを切り盛りしてきた、元株式会社アスタリスクの榎本社長が次のグループ会社立ち上げに関わるため、うちを離れることになったのです。そうなれば、株式会社CTUを運営するのは室井社長と私だけ。当然お客さん気分などではいられません。室井社長の片腕として自分もその運営に大きく関わることになりました。
とはいえ、ただ売上アップを目指せばいいというものでもないのが難しいところ。そもそも株式会社CTUには、IMSグループの目標に加え独自に目指す会社像があったのです。その目標とは、まず、質のいい警備員を育て、高単価を維持すること。次に、隊員さんに支払う給料の維持。そして最後に、これは株式会社CTUの事業目的でもあるのですが、「母なる企業」としての業務に積極的に取り組むことです。このなかで、まず私に求められるのは独立。株式会社CTUの通常業務を行いながら、そこからの独立を目指していかなければなりません。
ただ、私もIMSグループに参加するからには、自身の独立が夢でした。それからは、その目標、自分の会社を持つことを目指して、具体的に準備をすすめていくことになるわけでした。しかし、ここから私の長い停滞期がスタートすることになります。

業績をいいわけに逃げ回る

夢はただ漠然と憧れているだけではかないません。努力と決断がなければいつまでも夢のままなのです。
警備の仕事には当然規模の大小があり、クライアントにもさまざまな種類があります。
当時の株式会社CTUには、以前から大規模な発注をしてくれるクライアントがいました。
じつはその会社は、うちの隊員さんとつながりがあったのです。しかし、その仕事は担当者レベルの人間関係が前提となったものでした。ある理由でそれがなくなると、急に発注がなくなってしまいました。
当然業績は悪化。順調に業務を拡大してきた株式会社CTUは低迷期に突入します。
さらに、株式会社CTUの大黒柱である室井社長が、グループ全体の目標へと向けた別の事務所の立ち上げに駆り出されることが多くなります。
業績の低迷が避けられない状況にもかかわらず、実質的に株式会社CTUの運営を、私が中心的に行うことになったのです。
見方によっては、これはチャンスです。独立を目指そうと考える私がここで業績を上げれば、自分の実力をグループに示すことができます。
しかも采配を振るのは自分ですから、部下たちにうまく協力してもらいながら自分の負担を減らし、その分、独立準備に注力していくこともできなくはなかったはずです。
しかし、当時の私はそうは考えませんでした。
「CTUの業績が上がっていない、おまけに室井社長もいないなかで、通常業務に穴をあけるわけにはいかない。部下に頼るわけにはいかないし、私が頑張らないと……」
そこまではいいとしても、次がいけません。
「こんな状況で独立なんていっていられない」
そんなふうに考えてしまったのです。
いまになれば、この考えが間違っていることもはっきり分かります―結局、当時の私は無意識にこの「いいわけ」で自分を納得させ、株式会社CTUの通常業務に没頭することで、「独立」という本当の目標から逃れていました。
当時の私は部下に仕事を任せるのは悪いことだと考えていましたし、自惚れで、株式会社CTUの仕事に邁進しても、独立ぐらいいつでも手の届くところにあると考えていたところがあったのです。当然、私の独立準備はいっこうに進みません。
それも株式会社CTUの業績アップが大切。そのために動くのは当然というつもりでしたが、その考え方自体が間違い。なぜなら、株式会社CTUは、大前提の目標のひとつに「母なる会社」となることを掲げているのですから……。
本当は部下に仕事を任せるのは決して悪いことではありません。その時点でも私には「自分にしかできないこと」があったのですから、「部下にもできること」で協力してもらい、それを任せることは、いたって普通のことなのです。
逆の立場に立っても、私の甘さが分かります。この状況は、部下たちにとってもさらに成長していくためのチャンスだったのです。彼らに助けを求めて協力してもらわなかったことで、私は下についた人間たちの成長機会を奪ってしまったのでした。
こんな状況で上に立つ私の独立が見えてこないようでは、やはり「独立」を意識してIMSグループに入ってきた社員も停滞してしまいます。グループの仲間に頼ることもなく、部下たちの協力体制を組み上げることもせずに、自分が所属する株式会社CTUだけを見るようになってしまったのが私の採った方針でした。結果的に、それがグループとしてのIMS全体の成長すらも邪魔してしまっていたのです。
結局、私が独立に向けて営業所を出店したのは、入社から3年以上が経ってから。
それも、グループの事業推進委員会の後押しを受けてのことです。行動が遅く、周囲に助けを求めることすらせずにグズグズしていた私に、他の役員たちは「本当に独立する気があるのか」とヤキモキしていたことでしょう。

裏切ってしまった思い

さらに、この出店に際して、私は室井社長を裏切るような真似までしてしまいます。事務所の物件選びのときのこと。室井社長と私は、立地や値段の条件に合う物件を二人で探していました。
事前に不動産屋さんに用意してもらった物件を、2~3日かけてあちこち見て回り、そのなかから「これなら!」と二人の意見があったところを選びました。ところが、最終確認のため篠田総代(当時代表)に見てもらうと、これが納得してもらえなかったのです。
そうなると対応が早いのが篠田総代です。その場ですぐに不動産屋さんに連絡して、同じ建物の別の物件を見つけてもらったのです。じつはそれがいまの事務所。ただし、賃料は当初の予定よりもずっと高額で、なんといまだにIMSグループの全事務所のなかで一番の高額物件なのです。
もちろん、それだけなら特別問題にならなかったかもしれません。家賃に見合うだけの業務を回せればいいわけですから。
ただ、ここまでの準備を二人でまとめてきた室井社長がその場にいなかったのです。予定が入っていた打ち合わせで、外していた室井社長の顔が頭をよぎりました。ただ、目の前で、「こっちの方が断然いいじゃないか。
三浦くん、どうするんだい」と問いかけられた篠田総代の言葉に乗り、流されやすい私はその場の雰囲気に飲まれるように、
「はい、ここに決めます!」
と答えていました。
もちろん、あれだけ一緒に動き回ってくれた室井社長に、一言の相談もなくです。その話を聞いた室井社長には大変怒られました。せっかく条件に合う物件をあちこち探し回ったのに、いくら篠田総代に勧められたからって、当初の条件から外れる物件を独断で決めてしまうなんてどういうつもりだ、というわけです。私自身、わざわざ一緒に足を運んでくれた室井社長との時間を冒ぼう瀆とくしてしまったように感じ、合わせる顔がありませんでした。しかも、篠田総代に問いかけられたときに
「はい」
と答えれば、そうなることは十分分かっていたのです。
もちろん室井社長とは、付き合いの長さや株式会社CTUで一緒に苦労してきた経験もありますから、その後、いまに至るまでいい関係が続いています。その間には、いいことだけでなく悪いこともずいぶんありました。しかし、それでも、やはりあのときのことは、思い出しても申しわけない気持ちでいっぱいになる、私にとって最大の汚点であることは間違いありません。

独立の所信と救ってくれた言葉

事務所は赤羽に出すことになりました。完全に独立する前に、株式会社CTUの営業所として出店するわけです。
それに際して、IMSグループでは独立支援の事業推進委員会に、出店に際しての「所信」を申告するということが決まっています。
そこで私が掲げた「所信」は「絶対的幸福の追求」でした。昔から自信がなく、自分を表に出さない性格だったのが私です。
人の意見に流されやすく、強い信念のようなものを持てない人間でした。事務所選びの一件でもそれが失敗につながりました。
だからこそ、独立するからには自分の好きなようにやることにこだわりたかった。それで失敗しても自分の責任です。
もちろん、ただ利己的に身勝手になるという意味ではありません。周囲の幸福に努めることで自分自身の幸福が得られる。
それが「絶対的幸福」の近道になるという意味で、この言葉を考えたのです。この考え方で行動し、そこで得られる幸福を周囲にも広めていきたかったのです。
ところが、そんな所信すら日常の前では無力。私のなかですぐに風化してしまいました。
自分の事務所として出店した赤羽営業所でしたが、形としてはまだ株式会社CTUの一営業所。
自分も株式会社CTUの役員でしたから、そのトータルの売上を伸ばせば、IMSグループも文句はないはず―そんなふうに思うようになっていましたが、それも結局はいいわけにすぎません。
そんな煮え切らない状況を見るにみかねたのでしょう、あるとき私はIMSグループ本部に喚問されて
「所信を忘れてるんじゃないか」と強く指摘されます。
篠田総代(当時代表)や室井社長と私が大きく違う点の一つがまさにここです。
私には強い芯のようなものが欠けていて、目の前の状況についついたやすく流されてしまうのです。同じ月に株式会社CTUの株主総会が開催されました。しかし結果的に、常務取締役である私はそこに呼んでもらえなかったのです。
総会での議題の一つに私と赤羽営業所の今後についてがあったと聞かされました。
4月までに月次売上500万円が達成できなければ独立の件は白紙、私は役員を解任されるという決定が下ったことを話してくれたのは室井社長です。
そして同時に「もうこれからお前に業務指示は出さない」とも宣言されました。そんなせっぱ詰まった状況になれば、普通なら強い危機感を持って行動したり、誰かに助言や助けを求めたりするものでしょう。
しかし、それでも自惚ればかり強かった私は「自分で何とかできる」などと考えていたのです。
「指示しない」という室井社長にしても、決して私を見放しての言葉ではなかったはずなのに、その真意に応えることさえなかったのです。
それからしばらく、改めて独立基準を目指して赤羽の業務を進めようとしたことは事実です。しかしそれは空回りに過ぎませんでした。
そう簡単に人間の本質は変わりませんから、根拠のない自信のままやはり必死さが足りなかったのです。
いや、そもそもそれ以前に、当時の私は現状を改善するために、何をどう変えればいいのかすら分かっていなかったのでしょう。
その数カ月間ほど、楽しくなく、苦しい時期はありませんでした。独立のための500万円というハードルは少しも近づかず、空回りのあがきばかりを続けるだけでした。そんな苦しみを救ってくれたのは、室井社長の言葉だったのです。
「三浦、また目の前のことにとらわれて将来のビジョンを忘れてるんじゃないか? お前にとってのパートナーは、一体誰なんだ……少なくとも俺は、お前のことをパートナーだと思って一緒にやってきたつもりだぞ」
この言葉を受け、自惚れと意味のないプライドに溺れて、なんでも自分一人でできるなどと思い上がっていた自分に気づいたのです。
そして、いつであれ私を助けようとしてくれていた室井社長にまで、意地を張っていた自分を心から恥じ、考えを改めました。
室井社長に素直に頭を下げサポートを受け入れて、どうにか612万円という売上を達成。独立を手にすることができました。
これはそれまでの私がどうやっても実現できなかった数字です。私は、夢を語ることができない人間です。強い自信も信念もなく、流されがち。
失敗を繰り返しては、グループの期待を、裏切り続けてきたことと思います。しかし、それでもIMSグループは何度となく私に進むべき道を示してくれましたし、一人の社長として成功できるように導いてくれたのです。
それは株式会社CPA社長になってからも続いています。その結果、少しずつではあっても私からIMSグループに恩返しもできるようになってきていると感じています。
こうして、いま後進のみなさんに自分の経験を語る機会を得て、改めて思うのは私を一番近くで見ていてくれた室井社長をはじめとしたIMSグループの役員、いやIMSというグループには、個々の社員の失敗など問題とせず受け入れる器があるのだということです。
IMSグループには、私よりもずっと行動的で、成果を上げてきた社長たちがいます。そんな姿を間近でみて憧れ、独立を夢見ている方も多くいることでしょう。しかしその一方で、どうしても積極的になれなかったり、仕事や責任に押しつぶされそうで悩むこともあるはず。
それは人間それぞれの性格です。すぐには変えられません。そんな方にこそ、私がこれまでの経験で得たことは、きっと糧になるはずです。
IMSグループでの経験を通して学んだこと、みなさんにアドバイスしたいことは三つだけです。まず、社長として身を立てたいと思うならば、自分なりの未来のビジョンを描き、それを信じて行動するべきだということ。
一見無茶な、実現できないようなことであってもいい。その目的と方法を明確に。それによってきっと結果はついてきますし、理解してくれる誰かが、手を貸してくれるはずです。
次に、助けを求めることを恥じる必要はないということ。誰にでもできることとできないことがあります。苦しければ人を頼ればいい。
あなたの周りにいるのは、みんな同じ目的に向かう仲間なのですから、きっと助けてくれるはずです。その代わり、もしあなたが誰かに助けを求められたときは、それに全力で応えてあげること。
それがグループで働くことの意味なのですから。最後に、これはある意味で何よりも大切なことです。絶対に諦めないでください。諦めなければ、成功をつかむチャンスはきっとあります。私がいまこうして社長をしていること自体がその証明です。
役員のなかで一番失敗を重ねてきた私ですが、それでも諦めはしませんでした―そういう人間にはいつかチャンスが訪れますし、IMSグループは決して見捨てはしません。大きな夢を描いて、諦めることなく走り続けることができる新たな社長の誕生に期待しています。

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